1月 11

 イラン中部高原の古都エスファハーン。サファビー朝の全盛期であった16~17世紀にかけて、”エスファハーンは世界の半分”と讃えらたほどに栄華を極めた。イスラーム建築の最高傑作といわれるイマーム・モスク、壮大なバザール空間、そして王宮をはじめとする当時の建造物は、400年昔の栄光をしのばせながら現在に息づいている。
 それら歴史的建造物が集中するイマーム広場の一角に、シェイフ・ロトゥフォッラー・モスクがある。レバノンの著名な聖職者であったシェイフ・ロトフォッラーを迎えるために建造したもので、彼の娘は、後に国王アッバース1世と結婚した。このモスクには、モスクと一体化した、祈りを呼びかけるための塔も中庭もない。民衆に対しては閉じられた、王族専用の祈りの場として造られた贅を尽くした空間なのである。イラン独得の鍾乳石飾りが美しい門をくぐると、モスク入り口にしては一風変わった薄暗い回廊が通じていて、角を折れると、そこに唐突にきらびやかな礼拝堂が現れた。
 広さはせいぜい直径8メートルといったところか、抜けるような青を基調とした華麗なモザイク模様が、天頂のドームに向かって八方からせり上がっていた。小さな彩色タイル片を巧みに組み上げた、唐草模様、花々、そしてコーランの聖句を綴った流麗なアラビア文字といったモチーフが一分の隙もなく壁を埋め尽くしている。それら彩色タイルの一片はどれも数センチ角の大きさに過ぎない。完成までに17年の歳月を要し、気の遠くなるジグゾーパズルのあげくに構築されたイスラーム宇宙空間なのである。絶妙の造形は、眺めていて溜息をつくしかない美しさであった。
 12月のある朝、キリッと張りつめた冷気のなかを、明かり取り窓から射した光芒が、神の息吹を想わせる温もりとなって壁面を移ろっていた。
 祈りの方角、すなはちメッカの方向を指すミフラーブと呼ばれる壁の窪みはあるものの、ここは、厳格な絶対神、アッラーにひれ伏すモスク本来の抽象空間というよりも、神のしもべたることの至福に浸り、美の陶酔に身を委ねる幻想の空間なのである。偶像の存在を赦さぬモスクには珍しく、ドーム天頂には孔雀の塑像が置かれてあり、正面側に立つと、尾羽に相当する部分が、淡い反射光を受けてモザイク上に輝くという、心憎い演出までなされてあった。
 これまでにイスラーム圏を広く歩き、様々な様式のモスクを観てきたが、神の威光への陶酔を想わせる、これほどまでの美に対する執着には、シーア派というイラン的なイスラーム信仰が濃厚な影を落としているといわれる。イランには、伝統的な信仰から発展したゾロアスター教が紀元前千年頃に興り、イスラームによって征服されるまで大いに栄えていた。光と闇が格闘し、最後には正義が勝利して来世において甦るという思想は、のちの諸宗教の発展に多大な影響を与えた。そうして培われた、思考においては論理的、感覚的には極度に幻想的なイラン人的な側面(井筒俊彦氏指摘)が、アラビアで誕生した”乾いたイスラーム”に奥行きと内面性をもたらし、シーア派という独自の信仰体系を組み上げていったのである。
 ちなみにシーア派をイランの国教と定めたのは、16世紀にサファビー朝を興して全国統一を成し遂げたイスマイール1世であった。

ユーラシアニュース「地平線の彼方へ」-連載89

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12月 21

 ベトナムに行ったのは1994年、今から15年も前のことになる。世界を巻き込んだベトナム戦争の大きなうねりをひしひしと感じながら、多感であった青年期を通過した私たちの世代にとって、ベトナムは格別の思い入れを込めた存在であった。1ヵ月を費やした雑誌の取材で、メコン・デルタから、最北端の中国との国境の町、ラオカイまで、外務省より派遣された女性通訳と2人でベトナムのほぼ全土を巡った旅の印象は、今も鮮烈に脳裏に畳みこまれている。
 ホーチミン市の近郊ジャングルでは、かつてベトコンがゲリラ戦を戦い抜いた狭い地下トンネルを、汗だくになってくぐった。古都フエにある仏教寺院では、1963年に旧サイゴンのアメリカ大使館前で焼身自殺した高僧が、現場まで乗りつけた、古ぼけた小型のセダンが展示されてあった。ガソリンを浴び、全身炎に包まれているのに、合掌し座した姿勢を崩さぬ僧侶の、凛とした姿に言葉にならぬ衝撃を受けたことだった。高校生のとき脳裏に刻んだあの写真で、燃え上がる僧侶の背後に写っていた、その自動車なのである。枯れ葉剤の犠牲者である、ホルマリン漬けにされた奇形児の標本。首都ハノイの池には、撃墜された米軍機の残骸がそのまま放置されてあった。
 それら歴史の重みを背負った戦争遺跡もさることながら、長かった戦いの傷がいまだあちこちに露出している中にあって、たくましく生きる民衆の息吹が鮮烈だった。爆音をとどろかせ疾走するおびただしい数の小型バイク、そしてメコンデルタの運河を、朝市を目指す手こぎ舟の群れ。どこに行っても、人いきれと湿気で蒸せかえる市場は活力に満ちあふれていた。
 そんな混沌のベトナムにあって、時代を超えた夢幻の世界にいざなってくれたのが、ハロン湾だった。首都ハノイから東に200キロほど行ったハロン湾には、大小3000もの石灰岩の島々が浮かんでいる。浸食を受けた奇岩が淡く霞む眺めは、海の桂林とも讃えられてきた。当時のベトナムは何もかもが安かった。ある日の午後、中型の観光船を一人で借り切り、贅沢な島巡りに出かけていった。べた凪で鏡のように揺らめく海原を船は進んでゆく。出航して間もなく、海上を、何匹ものカラフルな蝶々がはるか沖合の小島めざして羽ばたいていたのは不思議な眺めだった。海面低くを幻影かと見紛う姿で羽ばたいているそれらの蝶をゆっくりと追い越しながら船は進んでゆく。島々は太陽の位置によって微妙に表情を変え、そして船の移動とともに淡いシルエットとなって重なり合い、一瞬後には徐々に離れてゆく。大小さまざまな奇岩が織りなす景観は、墨絵の世界にはまり込んだかのような情緒があった。そしてあちらこちらの島影には、漁で生計を立てているのであろう、水上生活の小型船がひっそりと停泊していた。
 私が訪れた翌年、1995年にはアメリカとの国交が回復し、ベトナムの経済成長はいよいよ加速して、近年は揺るぎないものとなっている。都市には高層ビルが林立し、観光客も桁違いに増え、私たちの世代がヒリヒリと感じて育ってきた、あのベトナム戦争時代の片鱗がどの程度に残っているのか見当もつかない。機会があればそれらを確認するために、一度ベトナムに行ってみたいと思う。

ユーラシアニュース「地平線の彼方へ」-連載88 

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11月 30

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リビア南部、フェザン地方の砂漠に行ってきた。サハラへは’93年以来、フェザンを訪れるのは実に1975年以来のことだ。あの時はリビアからチャドのチベスティーに行こうとしていたが、リビア南部の国境警察で、チベスティーは政情不安で危ないからやめたほうがいいと説得され、かわりにチャドから北上してくるラクダキャラバンを追跡しながら北に戻っていったことだった。
 34年も昔のことだから当たり前のことだが、舗装道路が縦横に走り、すっかり近代化した現在のフェザンに当時の面影はなかった。産油国の好景気に沸くリビアでは、砂漠の村々でも建設ラッシュだったが、今回意外だったのは、中国からの出稼ぎ労働者が大挙押しかけていて、中国語の安全標語などがあちこちの砂漠に掲げられていた。34年前のときも建築ブームで、エジプトからの出稼ぎが大半だった。アラブの盟主で、かつ古代文明を背負っていることを自認するエジプト人たちは、そのうち石油が枯れてしまえばリビアはもとの砂漠に戻ってしまうだけだ、とやっかみ半分に、働きもしないのに家がもらえる、恵まれた村人たちを蔑視していた。中国人たちも”石油が枯れてしまえば”と、同じ思いで砂漠の住人たちを見下げているに違いないが、サウジにしろ、リビアにしろ、いっこうに石油が枯れる気配はなく、世界はオイルダラーに支配され続けている。
 それにしても、サハラの旅がなんとイージーに出来る時代になってしまったことか。紹介されたトリポリの旅行社とEメールを6,7回交わした後、ドバイ乗り継ぎで入国の翌朝には、ガイド兼コックとドライバーと3人で、キャンプ用具一式を満載したランドクルーザーで、地平線に向かって走っていたのである。ナツメヤシの木陰で昼食をすませたあと、360度砂の地平線のなか、”永遠のサハラ”の真っ只中に私は立っていた。
 むかしサハラの旅となると、ヨーロッパでランドローバーを用意して装備を調え、マルセイユからフェリーで地中海を渡るところから始まった。そうする以外に、サハラを自由に走る手だてはなかったものだ。
 季節は11月、夜間少々寒いことを我慢すれば、これほど快適な季節はない。日中もまったく暑さはなく25度℃と行ったところか。砂嵐の季節でもなく、少々風が吹いていても夕刻にはぴたりと止んだ。5時前にはその日のドライブを終え、きれいな砂地を選んでテントを張り、まず濃いお茶を一杯点てたあとで、トゥアレグ族のコックは夕餉の支度に取りかかる。マリからの難民である彼は苦労が身にしみているだけに気配りを心得ていた。 日没後徐々に冴え渡り、輝きを増してゆく満天の星々。さらに旅の後半からは、夜ごとに満ちてゆく月明かりのもと、夜の砂漠が深みを増していった。あと4,5日も待てば月明かりで手相さえ読むことの出来る満月を迎えたが、その前に旅程が尽きてしまった。ひんやりとした手触りの砂丘に座して、永遠の時間と交感できる幸せを久々に実感したことだった。
 それにしても15日間連続のテント暮らしは少々きつかった。気分は20代のサハラ体験の頃と変わらないつもりだが、すでに63年も生きているのだから、、、

乗り継ぎ便を待つドバイ空港にて

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11月 05

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アラブ首長国連邦中興の祖にして初代大統領であった、故シェイク・ザイードの名を冠した巨大モスクが建造された。その建造工程の撮影をアブダビ当局より依頼され、はじめてアブダビを訪れたのは2007年9月のことだった。7つの首長国が連邦を構成するこの国の玄関口はドバイである。エミレーツ航空の乗り継ぎで以前に2度立ち寄ったことがあったが、10年ぶりに降り立ち、急成長に沸くドバイの変貌ぶりには目を見張った。
 高さ818メートル、完成すれば世界一となる、現代版バベルの塔のごとく天を目指すブルジュ・ドバイもさることながら、アブダビに向かう高速道路の両側砂漠に、雨後のタケノコの勢いで、ド派手な高層ビル、ざっと50本ほどがほぼ同時着工で競うように成長している様は、経済的裏付けとは異次元の白日夢のような光景だった。
 そのドバイから砂漠を1時間ほど走り、アブダビ市街に入る直前、小高い丘陵に白亜のドームとミナレットが聳え立つシェイク・ザイード・グランドモスクが現れた。高さ75メートルのメインドームを中心に、幾つものドームが微妙に重複しながら朝日を受け、みずから発光するかのように聳える偉容は、祈りのための建造物というより、アラビアン・ナイトの不思議空間であった。
 工事は最終段階にさしかかっていて、おびただしい数のインド人労働者があちこちの現場に張り付いていた。そんななか眼を見張ったのは、メインの礼拝ホールに敷かれる、面積5600㎡という、イランで織り上げられた世界最大の絨毯と、それを敷きつめるために奮闘するイラン人たちだった。何枚かに分けて織り上げた絨毯を、部屋の形状に合わせて、細部を調整しながらつなぎ縫い合わせていくという手の込んだ工程である。アラベスク模様を現代風にあしらった斬新なドーム中央には、こちらも世界一という、直径15メートルの華やかなシャンデリアが吊り下げられている。純白の大理石床に象眼された鮮やかな植物模様。長い回廊に並ぶ数百本もの大理石の柱は、ラピスラズリやアメジストをカラフルにちりばめた唐草模様で飾られており、どこを見渡しても、イスラームの礼拝空間というよりも、巨万の富を投じ贅の限りを尽くした壮大なモニュメントなのである。
 その後2008年5月にモスクが完成するまでの間に2度訪れた。完成し、日没とともにライトアップされると、いよいよアラビアン・ナイト、夢幻の世界がそこに出現した。モスクは4万人のキャパシティーがあるが、市街地から離れたこのモスクに、日々礼拝に訪れる者はそう多くはない。煌々と輝く空間に人影はまばらで、一体どれほどの維持費なのか見当もつかないが、これが超リッチな産油国アブダビの実力なのである。この国のイスラーム政策は異教徒に対してもオープンであるため、今やシェイク・ザイード・グランドモスクは、アブダビ最大の観光スポットにもなっている。そして2012年には、こちらも巨額の作品レンタル料を支払って、パリのルーブル美術館別館がアブダビにオープンすることになっている。
 昨年後半、金融危機のあおりでドバイ経済に激震が走った。欧米からの投資資金の急激な引き上げによりバブル経済は一挙にしぼみ、一時は、ドバイは砂上の楼閣に過ぎなかったのかと揶揄されたが、アブダビが支えることを力強く表明したこともあってか、事態はさほどのダメージには至らなかった様子だ。

ユーラシアニュース「地平線の彼方へ」-連載87

10月 20

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エチオピア撮影ツアーに、初めて同行することになりました。
1980年にナイル川の取材で訪れ、独特のキリスト教文化に魅了され、以来1997年まで繰り返し訪れた、私にとってもっとも思い入れの深い土地です。伸びやかな風土、真摯な祈りの姿、生きる喜びと哀しみ、、、。あのエチオピアが13年を経てどう変わったのだろうか。

詳細は、
●●こちらへ

10月 05

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 カトリックの総本山であるローマのヴァチカン市国、サン・ピエトロ広場には見事なオベリスクが聳えている。その頂に十字架を立てキリスト教信仰のシンボルとしているが、もとは帝政ローマ時代にエジプトより運び出され、この場所にあった競技場に建てられたものであった。ポポロ広場をはじめとしてローマ市内には、他に13本ものオベリスクが建っており、すべて古代ローマの時代にエジプトから略奪したものである。パリにもロンドンにも聳えている。コンコルド広場のオベリスクは、ナポレオンのエジプト遠征を契機に、ルクソール神殿から運んできたものだ。ヨーロッパにとってエジプトは文明の源流であり、何千年を経ても風化しない鋭い花崗岩の柱は、エジプト文明、永遠性の象徴であった。
 大英博物館、パリのルーブルをはじめとする世界の博物館が所蔵する、おびただしい量の古代エジプト美術品やミイラの数々、、、。ちなみに欧米諸国の主要な博物館で所蔵されているエジプト関連品の総数は優に80万点に及ぶ。だが一方で、西欧帝国による国家事業としての収集がなされていなかったとしたら、エジプト美術は散逸し、その大半が行方知れずになってしまったことも事実であろう。ちなみにカイロ・エジプト博物館収蔵品の総数は18万点である。
 古代エジプト文明は3000年以上にわたって栄えてきた。その間、歴代のファラオは競って巨大神殿の造営に励み、またミイラとともに夥しい副葬品が埋葬されてきた。それらの墳墓は古代エジプトの時代からことごとく墓泥棒たちの餌食にされてきた。カイロ博物館の厖大な展示品のほぼ三分の一を占めているのは、奇跡的に盗掘を免れ、1922年に発見されたツタンカーメン王の絢爛たる副葬品の数々である。若くして亡くなった無名のファラオの副葬品にしてこの規模であることからして、大規模な墳墓を建造した、歴史に名を残す権力者たちの副葬品といえば想像を絶する宝の山であったろう。
 「王家の谷」の王墓は、ファラオの権力が盤石であった19王朝(紀元前1200年頃)の頃までは厳しく管理されていたが、20王朝末期頃から墓荒らしが横行しはじめ、25王朝末期(紀元前660年頃)には盗掘し尽くされており、考古学者やヨーロッパの収集家が押し寄せるはるか昔に、ファラオの財宝は永久に消え去っていたのであった。だが神聖なるファラオのミイラだけは、神官たちによって何度も移し替えられ、1870年代になって、王家の谷の秘密の墳墓で発見されたのだった。
 CTスキャンやDNA鑑定など、先端科学を駆使してこれらのミイラを調査した新たな発見が、最近センセーショナルに報じられている。ツタンカーメンのミイラ調査では、それまで有力だった、首を殴打されたという「暗殺説」が否定され、左足に負った傷が原因で併発した感染症が死因であったことが有力となった。また2007年には、行方知らずになっていたハトシェプスト女王のミイラが特定された。ひどい虫歯に悩まされ、歯肉炎治療の抜歯による膿が全身を蝕み、死因はガンか糖尿病の合併症で、50歳前後で亡くなっていたことまで突きとめられたのであった。
 権力の頂点を極め、ハトシェプスト(”もっとも高貴なる女性”の意味)を名乗った伝説の女王晩年の、なんとも赤裸な事実を、3500年後の私たちは暴き出しているのである。 

ユーラシアニュース「地平線の彼方へ」-連載86 

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9月 09

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 大統領選挙の不正疑惑をきっかけに、”神の国イラン”が激しく揺れている。
 今から30年前、民衆は独裁体制を敷くパフラヴィー国王(シャー)を追放して、聖職者に統治を委ねる神権政治を受け入れたのであった。それまで、シャーが推進する西欧化政策のなかで、女性のベール禁止令が布告されるなど、イスラームは形骸化され、人々の意識は宗教から遠ざかって行くかに見えた。だが、シャーの取り巻きだけが肥え太り、反抗する者には秘密警察が容赦ない、その体制に対し打倒の叫びが起こると、迫害に耐え、復讐精神に燃えるシーア派信仰の原点を人々に再認識させた。革命派は,神の名において、この民衆心理を巧みに誘導しながらイスラム革命の熱狂へと人々をひきこんでいった。
 民衆は、シャーの出国と入れ替わるように、亡命先のフランスから帰国したホメイニー師をシーア派救世主の再来とみなして熱狂的に迎え、世直しを委ねたのであった。ホメイニー師は、シャーを支えてきたアメリカを大悪魔とののしって国交を断絶し、ベール着用をはじめとして厳格なイスラーム法を徹底させた。この”ホメイニー革命”が、世界的なイスラーム覚醒の導火線となったことは言うまでもない。
 だが厳格なイスラーム体制が確立してみると、民主主義どころか、イスラームの名の下に民衆の権利を大幅に制限する独裁政権へと変貌してしまっており、シャーの時代よりもさらに自由が制限され、経済停滞が蔓延するなか、”現イスラーム政権の厳しさを、もしシャーが保持して恐怖政治を徹底していれば、革命は起きなかった”と言われるくらいに、保守派民兵たちを動員した反対派への弾圧は容赦のないものとなってきた。
 その一方で、隣国イラクとの8年に及んだ戦争を乗り切ったことで政権は安定し、統治は行き届いて中東第一の治安を誇り、西欧諸国と距離を置いているため、外国資本による開発とも無縁のまま、古き良きペルシア文化は暮らしの中に受け継がれていた。グローバリゼーションの圏外にあって我が道を行く、旅人にとってはこれほど情緒にあふれた国はなかった。世界の常識であるはずのクレジットカードがまったく使えず、マクドナルドもスターバックスもない国。ペルシア湾岸の成金国家などでは消滅してしまった古き佳きものが、開発から取り残されたイランでは受け継がれていた。
 だが30年という年月は、とくに若年層が人口の大半を占めるこの国では世相を大幅に変えてしまった。実はイラン人というのは、政治運動のたびに強調される熱烈な集団礼拝の光景などとは裏腹に、さほどイスラーム信仰に濃密な民族ではなく、日々の礼拝をしない人々が実に多いことにも驚かされる。都市部ではとくにその傾向が強く、そうした背景があったからこそ、かつてシャーは女性のベール禁止令が出せたのであった。
 イスラームの名の下に締め付けが強化されるその一方で、聖職者、保守層が特権階層を形成していることは広く知れ渡っていることでもある。アメリカと敵対し、核開発を進めていることで長年にわたって経済制裁が科せられており、イスラーム革命以前には中東一の工業国であったのに、今ではもっとも遅れた国になりはててしまっていることは、プライドの高さではひけをとらないイラン人の多くが渋々認めるところでもある。都市住民たちの多くは、聖職者による統治体制に今では”ノー”を突きつけたいのだが慎重だ。反体制の烙印による弾圧が容赦のないものであることは誰もが知っている。
 現在の支配層が、失墜した権威を回復し民衆をどう束ねるのか、注目したい。

ユーラシアニュース 「地平線の彼方へ」-連載85

8月 04

「ユーラシアニュース」地平線の彼方より-連載84SH0075

 それは1973年4月のことだったと記憶している。二度目のサハラの旅で、私は、アルジェリア西部の或る小さなオアシスに滞在していた。オアシスのすぐ外には高さ100メートルにも達する砂丘がせまっており、その上に立つと地平線まで続く壮大な砂の海を遠望できた。
 灼き尽くす太陽が西に傾きようやく一息ついたある日の午後遅く、私は撮影するために、親しくなった16歳の若者と二人で砂丘に登った。砂の地平を茜色に染めながら刻一刻と変化してゆく壮大な夕景に熱中し撮り終えてふと気がつくと、先ほどまで悪ふざけを言い合っていた快活な若者の姿が消えていた。
 どこに消えたのかと不思議に思い小さな砂の丘を越えてみると、若者はそこに立って夕べの祈りに没頭していた。東の方角に向かって深々と一礼してひざまずき、額ずいて、そして立ち上がって祈りを口ずさんでいる。それは意外な姿だった。つい先ほどまで見せていた幼さの残る少年の面影は消え、神とじかに向き合っているその五体からは、凛とした砂漠の男の威厳がにじみ出ていた。
 暮れ行く地平線の真っ只中で、そばに立った私の姿など眼中になく、繰り返し額ずく若者の額から鼻筋にかけて、べっとりと付着した黄金の砂粒が、祈りに没頭する忘我の境地を象徴しているかのようだった。折しも、若者が向き合ったメッカの方角には、地平線上に昇ったばかりの満月が煌々と輝きを放っていた。美しい光景だった。そこでは、大いなるものと裸の魂が、広大な空間のなか、何らの介在もなしにじかに向き合っていた。砂漠という風土のなかで営まれてきた精神性の深みに、私がふれた最初の光景であったと思う。 乾燥の極地に点在するオアシスで暮らす人々にとって、生命線はひとつの泉である。枯れることのない泉こそは神の賜物であり、生かすも滅ぼすも神の意志ひとつであるとする明解な信仰がそこでは生き続けていた。人々の祈りには、日々、無事に生かされていることへの感謝が滲み出ていた。
 一方で、砂と風と星々の煌めく砂漠は私を魅了した。熱気が張りつめていた地平線のなか、陽が傾くにつれ砂漠特有の放射冷却が作用しはじめ、気温はみるみる下がっていく。日暮れの前に走行を切り上げ、夕べの優しさに包まれた砂地にマットレスを敷き横たわっているだけで、熱気に痛めつけられ弛緩していた神経は回復してゆくのだった。やがて陽は落ち、刻一刻と濃くなってゆく夕闇のなか、澄み渡った空一面に星々が煌めきはじめる。生きものの気配もなく、物音ひとつしない空間のなかで時の流れを刻むのは、天空を覆いつくす星々の動きのみである。
 そんな空間に自分が身を置いていることの不思議に思いをめぐらせていたとき、この天空はるかに宇宙的スケールですべてを司るなにかが存在するかも知れない、という思いを受け入れるのに違和感はなかった。あるいはこうも考えた。一枚の紙の表と裏のような関係で、私たちには感知できないもう一つの世界が存在しているのではないだろうか、と。 砂漠というところは、日常の中では眠ったままのある感性を呼び覚ましてくれる不思議空間でもあった。

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7月 07

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 標高4500メートル、中国(チベット)国境まで50キロのチベット高原。
 眼下に、コバルトブルーの湖を抱くようにひらけた、高原砂漠の真っ只中。臨時に設けられた祭壇に掲げられたダライ・ラマ肖像と向き合って、チベットの国歌が高らかに歌われている。そして頭上には、たった今ポールに上ったばかりの真新しい国旗”雪山獅子旗”が、抜けるような天空に鮮やかに映えわたる。
 失われてしまった雪の国「観音菩薩の浄土」を讃えて歌っているのは、300人ほどのチベット難民たちだ。遊牧を生業としながら、この近くの谷あいに集落をなしている。総員起立し、帰るに帰れなくなった故国を間近に臨みながら、観音菩薩の化身、ダライ・ラマ14世の74回目の誕生日を、彼らはこうして厳かに祝っている。
 中国の強権支配下にあるチベットでは、チベット国旗の掲揚は重罪に相当する。そのうえ現在では、ダライ・ラマ肖像を所持しているだけで犯罪者扱いだ。広くチベットを歩き、深くて終わりのないその苦悩を知る一人として、ここがインド領であるとはいえ、まぎれもないチベット高原に、禁断の”雪山獅子旗”が堂々とはためく様は胸に迫りくるものがあった。
 
  北インドのラダックに来て10日ほどになる。ヒマラヤ一円に広がるチベット文化圏を広範囲に見てみようと思いつき、俗に”小チベット”と呼ばれているラダックに来てみた。
 チベット本土を広範囲に歩いたのは十数年前のことだ。その後東チベットにも行っているが、とくにこの5~6年来、中国による急速な開発により、チベット本土は激烈な変化の波に晒されている。チベットはユニークな土地だ。極限高地という風土に培われた仏教文化は、混迷の現代世界を映してみる格好の鏡だと思っている。共産主義により一時はズタズタに引き裂かれたが、今は経済支配によりさらに激しく揺すぶられている。決して滅ぼしてはならない文化だと考えている。中国支配下の外にもチベット文化は広がっている。この際、自由に息づいているチベット文化の様々な顔を見てみようと思いついた。

 到着したデリーでは、最高気温46度という酷暑に恐れをなし、翌朝のフライトでラダックのレーに向かった。標高3500メートル、気温は25度~30度。乾燥していて朝夕はセーターが必要なくらいだ。4日前のニュースでは、デリーあたりにようやくモンスーンが到来し、豪雨に見舞われたそうだが、ヒマラヤ山中のラダックではモンスーンの影響はなく、澄み渡った天空はどこまでも高い。

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6月 30

「ユーラシアニュース」 地平線の彼方より-連載83

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 「ヒンズー教最大の聖地、バラナシで火葬にされ、遺灰をガンガー(ガンジス川)に流してもらえば、苦しい輪廻の輪から逃れて来世は天国に生まれ変わることが出来る」
 これはヒンズー教徒のあいだで古より受け継がれてきた死生観で、遠い土地で亡くなった場合も、しばしば家族がバラナシまで遺灰を運び、ガンガーに流して法要を行う。
 バラナシでもっとも規模の大きな火葬場、マニカルニカー・ガート。ここでは24時間火葬が行われており、暗闇のなかでも常に炎が立ちのぼっている。火葬場に通じる裏路地で待っていると、5分から10分おきに次々に葬列が通り過ぎてゆく。青竹のタンカに縛りつけられ、サフラン色の布で被われた遺体は、4人の男に担がれて「ラーム・ラーム、、、(神こそは真実、、、)」の歌声とともに、揺られながら軽やかに通過してゆく。そのまま水際まで運ばれガンガーの水に浸されたのち、組み上げた薪の上に載せられ、喪主が一通りの簡素な儀式を済ませると、火が点けられる。火葬が終わるまで2~3時間を要するが、遺体に付き添ってきた男たちは(女性は火葬には参加しない)、その間、雑談をしながら炎のまわり具合をじっと見守っている。
 バラナシを訪れる旅行者の多くが火葬場を観に来る。旅の情報として火葬のことは誰もが知ってはいるが、やはり目の前でヒトの体が燃えている情景を目にするのは、激烈なる衝撃である。風向きによっては熱風とともに肉の焼けるにおいが流れてきて、思わず息を詰めることもある。火勢が弱まると、ギーと呼ばれるバターの油が注がれ、さらに焼け残りそうになると、棒きれで生焼けの足や腕を無造作にへし折ったり、燃えさしをその上に投げ込んだりと、見ていて溜め息が出るほどにぞんざいな扱いである。貧乏人にとっては薪が高価であるため、生焼けのままガンガーに放り込まれる遺体も少なくなく、日本人がそこはかとなく抱いている死者への尊厳など微塵も見られぬことに無情をかき立てられ、へとへとになって離れてゆく旅行者も少なくない。
 輪廻転生思想が広く行き渡り、魂が離脱したあとの骸を単なる抜け殻と見なす風習が広く行き渡っているうえに、日々火葬に専念する職人たちの死体に接する態度には、情感など微塵も感じられない。ちなみに、火葬を取り仕切るカーストの役得のひとつに、火葬の灰に溶け込んだ貴金属収集があるという。死者が着けたまま火葬にされ、高温で溶けた貴金属を、灰を洗うことで集めているのだ。
 妊婦、5歳以下の幼児、サードゥー、そして蛇にかまれた死者は火葬にはされず、水葬にされる。サードゥーは、出家時に世俗と断絶する儀式を済ませており、幼児は一人前とみなされていないからだ。火葬の薪代を払えぬ貧しい人たちも、そのままガンガーに流してしまう。砂州に流れ着いた遺体は犬やカラスの餌となり、水底には、重しの石を縛られ沈められたおびただしい遺体が、泥の中で魚の餌となっていることだろう。そして雨期ともなれば、数十倍に増水し、早瀬となったガンガーの流れが、死者や環境汚染の痕跡を一挙に流し去ってしまい、ガンガーは蘇るのである。聖も穢れも呑みこんで滔々と流れ行くガンガーの岸辺に立ち、地平からゆるゆると昇る朝日と向き合っていると、輪廻の車輪がゆっくりと巡る大いなる時間、インドでしか接することのない時間のなかに、いま自分がたしかに立っていることに気づかされるのである。

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